osaosaの徒然なるままに |
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戦国時代の武将「斉藤道三」
美濃の国盗り
天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の次郎を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。 しかし織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた政頼と連携を結ぶと、両者は、美濃復帰を大義名分に掲げて朝倉氏と織田氏の援助を背景として、美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、政頼は革手城に復帰した。天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。一方、政頼も同年11月に病死した。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。 この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城にとどまっていた土岐頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。 (Wikipedia出典) |
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